オリエンティア Advent Calendar

オリエンテーリングを語ろう。

オリエンテ―リングの誕生秘話

オリエンテーリングの誕生秘話 

 こんにちは。トータス&東大OLKOBの濱宇津佑亮です。

 12歳でオリエンテーリングに出会い今年で11年も経ちました。2019年は卒論でオリエンテーリングの歴史を書いて、社会人オリンティアの皇居ラン始めて、アジアジュニアユース選手権を運営して、家をクラブハウス化するために一人暮らしを始めたりしました。

 さて、今日12月15日は大河ドラマ『いだてん』の最終回ですね。東京オリンピックに賭けた人々の物語が最高潮を迎えます。この1964年の東京オリンピックに関わり、そしてオリンピック後もスポーツの理想を追った先人たちが、実はオリエンテーリングの誕生と深く関係していたということを本日はお話したいと思います。

 来年2020年オリンピック東京大会を目前に控えた今だからこそ、振り返っていただきたいと思っています。

 

 1964年東京オリンピック成功の立役者の布石

●「あすに向かっての命題」

 

東京大会*はほんのステップストーンに過ぎなかった.わたしたちは大会が終わった途端に,目の前いっぱいに2本の柱,すなわち競技力の今後の強化向上と国民スポーツの振興がとてつもなく大きな姿で迫っていることを発見したのです.

*1964年オリンピック東京大会

 

 オリエンテーリングの誕生を語るには、まずこの一文から始めないとならない。1965年1月、東京オリンピック選手強化対策本部の機関紙『Olympia』の最終号に大島鎌吉選手強化対策本部長が寄せた「あすに向かっての命題」の一文です.

 1964年のオリンピック東京大会は、日本代表が金メダル16個の過去最高の成績を残して日本中を熱狂させました。そんな快挙を成し遂げた日本代表選手団の中心にいたのが、選手強化対策本部の本部長・団長として代表選手の強化を担った、大島鎌吉でした。今でも大島は「東京オリンピックを作った男」と呼ばれています。

 そして、大島鎌吉と大島鎌吉のスポーツに賭けた想いを受け継いだ弟子たちによって、日本にオリンテ―リングが芽吹いていったのでした。まずは、大島鎌吉がどのような人物だったのかに迫っていきたいと思います。

 

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来日したスウェーデンオリンティアに賞状を渡す大島鎌吉

 

●大島鎌吉と「みんなのスポーツ」

 大島は1908年金沢市生まれ。金沢商業学校で三段跳びに出会い、そこから選手として活躍していきます。1932年の第10回オリンピックロサンゼルス大会では銅メダルを獲得し、1934年には15m82㎝の世界新記録を樹立しました。トップアスリートです。競技を引退後は毎日新聞の記者をしながらも、(第2次大戦中にはドイツ戦線を取材し、軍の高官になりすましてヒトラーと体育政策について議論したという武勇伝も、、、)日本のスポーツ界に関わり続けていました。

 

 そんな大島は、戦争終結後の1947年の時点で日本のスポーツ界に対して次のように述べています。 

 

従来の日本スポーツが学生選手の独占的花園でしかなかった.オリンピック選手のほとんど全部が学生で占められた実際は,日本資本主義を母体とする社会環境の生んだ奇形だが,勝利追求に急なあまりこれをきよう正せずいよいよ変質型に追い込んだ事大主義的失敗はこの際断じて繰り返すべきではない.われわれがスポーツ界に声を大にして叫ぶとは「スポーツは国民大衆と共にあれ」「スポーツは大衆に基盤をもつて育成させよ」ということだ.壊れかけたピラミッドの先端だけをながめて回顧し,弱弱しく「復興」をさけぶ愚人の夢を追ってはならない.(大島 1947: 2)

 

 

 大島はスポーツの参加者が学生のみになっている現状を批判し,スポーツの大衆化の重要性を訴えていました。そのころの大島は毎日新聞社の記者の立場から、高度な競技者の育成を中心に据える日本体育協会に対して警鐘を鳴らしていました。そのため、競技力の向上を唱え続けて日本体育協会をリードした『いだてん』主人公の田畑とは長年の思想的ライバルであったと言われています。

 では大島のスポーツへの考えはどのようなものだったのでしょうか。その背景には、オリンピック思想があります(※大島はオリンピックの父・クーベルタン著『オリンピックの回想』の訳者でもあります。)

  それらは、オリンピックの精神「青少年の育成」、「平和の祭典」、「勝利することではなく、参加することに意義がある」です。大島は青少年の育成のためにスポーツ少年団の設立、東京オリンピックの招致を行い、平和の祭典のオリンピックの政治的ボイコットに対しては反論の先鋒を担いました。また平和に関しては、戦争の経験も合わさり、スポーツという身体文化を戦争=死に対抗する生の実践運動として捉えていました。

 

 そんな大島にとって、オリンピック東京大会を終えた後に至上命題として残ったのが冒頭「明日への命題」における、競技力の今後の強化向上と国民スポーツの振興の両立だったのです。重要なのは、競技力向上とスポーツ文化の普及を結び付けて両立するという点です。スポーツが人々の生きる糧になると信じていたからこそ、スポーツが日常に溶け込み文化として根づくことを理想としていたのでした。大島の理想は「みんなのスポーツ」=sports for all運動として実践されていくのでした。

 

●大島鎌吉の布石

 さて、競技力向上にしか興味のない日本体育協会がスポーツ界の中心を占める中、大島はどのように彼の理想を追い求めたのでしょう。そこには大島が1964年の東京オリンピック前に仕掛けた大きな布石があります。

 大島は東京オリンピック開催間近の1964年1月26日に国会に呼ばれます。その当時、国民の関心はオリンピックで日本選手が何個メダルをとれるのか。それを選手強化本部長の立場として、説明に国会の場に出席しました。大島はそこで、過去最高の金メダル15個以上獲得を明確に宣言します。

 

 

御承知のとおりに,東京オリンピックにおけるところの選手強化対策本部の成績の目標でございますが,それは昨年と同様でございまして,大体十五以上の金メダルを取ろう,1位を取ろうということになっているわけでございます.

 (『第46回国会参議院オリンピック準備促進特別委員会議事録第2号』  1964)

 

 

 これにより日本代表は大きな期待を背負うことになります。大きなプレッシャーにさらされた中、16個の金メダルをとった日本選手団は天晴れという他ありません。

 さて、重大な発表を行った大島ですが、同時に理想のための大きな布石を打っていました。

 大島は、上の金メダル宣言から間髪を入れずにこう続けています。

 

  

私たちがもう1つ関心を時っております問題は,これは善後処理と申しますか,今日ここまでやってまいりまして,いろいろと手を広げてまいったのでありますが,しかしオリンピックが終わると,それが何もなくなるというようなことでは,将来の日本のスポーツのために,あるいは体育のためによくないのではなかろうか.したがって,これだけ手を広げたものを何らかうまく組織をいたしまして,オリンピックが終わりではなくて,オリンピックを新しいスタートとして,これらを日本の体育,スポーツの将来のために備えたいというような考えを持っているのでございます.(中略)その節は従来に変らず御協力をお願いしたいと,かように存じております.

 (『第46回国会参議院オリンピック準備促進特別委員会議事録第2号』  1964)

 

 

 

 大島はオリンピックの成果を約束すると同時に、オリンピックの選手強化本部を基礎した新たな組織の発足と国の支援の約束を求めたのでした。そして大島が宣言通りにオリンピックで成果を残し、当時のオリンピック担当大臣の河野一郎の協力もあって、「体力つくり国民会議」とその事業実施団体として「国民体力つくり事業協議会」が設立されました。オリンピックの選手強化本部にいた人々が多くこの組織に入り、行政の支援を受けながら、民間とも連携して「みんなのスポーツ」運動を進めていきます。

 この組織がオリエンテーリングを日本に普及させていくことになるのです。

 

「みんなのスポーツ」とオリエンテーリング

 オリエンテーリングの父 アーネスト・シランデル

 さて、一旦オリエンテーリングの本場北欧での発祥について簡単に振り返ります。オリエンテーリングは北欧が発祥のスポーツです。19世紀、軍隊の斥候訓練として行われていたものが、スポーツ化されていきます。本格的に普及するのは1918年にスウェーデンストックホルムでアーネスト・シランデルが開いた大会以降と言われています。シランデルがルールや規則を整備していきながら愛好者が増えていきました。その功績からシランデルはオリエンテーリングの父と呼ばれています。

 当時ヨーロッパでもスポーツは特定のエリートに占有されていました。そこでシランデルは"スポーツをすべての人の手に!""自然を再びわれわれの手に!""いますぐそのままの姿で始めよう!"を合いことばにオリエンテーリングを一般市民に広げていきました。それが、ヨーロッパにおける地域クラブを基礎としたオリエンテーリングの発展につながっていきます。

 シランデルは日本で「みんなのスポーツ」運動が始まる約50年前に、「みんなのスポーツ」としてオリエンテーリングを生み出し、ヨーロッパに根付かせたのでした。

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●大島鎌吉の弟子・紺野晃とオリエンテーリングの出会い

 さて、東京オリンピック後の日本に戻り、日本でのオリエンテーリングの芽吹きをみていきます。ここからの主人公は、大島鎌吉から代わり、大島の弟子であり、日本のオリエンテーリングの父・紺野晃になります。

 紺野晃さんは1934年新潟生まれ御年85歳です。新潟大学教育学部を卒業後『山と渓谷』の編集をした後、東京オリンピックで『Olympia』の編集を行います。(『Olympia』は東京オリンピック選手強化本部の機関紙でしたね)そこで、紺野さんは大島と出会い、大島の弟子として大島のスポーツの思想を学びます。

 そして、この『Olympia』の記事集めで外国雑誌を収集していた際、紺野さんはオリエンテーリングと出会います。そのときの気持ちを次のように語っています。

 

 自然の中で,子供も大人もエリートも昨日ルールを覚えたばかりの者も,自分の能力に見合うカテゴリーで楽しむことが出来て年齢と言うカテゴリーの中で楽しむことが出来るスポーツは当時の日本に他にない

   

 スウェーデンで「みんなのスポーツ」を目指したオリエンテーリングと、大島思想を引きついだ紺野晃が出会った瞬間でした。

 そして、東京オリンピックの後に発足した「国民体力つくり事業協議会」で紺野さんはオリエンテーリングの普及に邁進していくことになります。

 

オリエンテーリングの芽吹き

 1966年6月26日、東京都高尾で日本初のオリエンテーリングが開催されました。紺野さんは読売新聞社と組み、読売新聞徒歩ラリーという名前でオリエンテーリングを実施します。 

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日本ではじめてのオリエンテーリングコース

 

 読売新聞の広報欄で募集を行い、第1回は106人の参加、その後徒歩ラリーとしては1969年までに15回開催され500人規模にまで拡大していきました。

 徒歩ラリーの順調な成功を見た紺野さんは次なる一手を打ちます。1969年6月23日単身渡欧し、なんとIOFに加入してきてしまいます。まだ日本にオリエンテーリング組織はない状態、つまり加入できる団体がない状態で、日本の加入を認めてもらうというなかなかの荒業をしています。 

 荒業ではあるのですが、このIOFへの加入によって、一気にオリエンテーリングの社会での認知は高まっていきます。新聞、テレビ局、雑誌でオリエンテーリングが大々的に取り上げたのです。そして、この盛り上がりを受けて国もオリエンテーリングを全面的にバックアップしていきます。今では考えられないですが、総理府の名前で 都内の国鉄(JR)と地下鉄車内に5千枚のポスターを掲示しました。また、国のオリエンテーリング振興予算として1971年には7570万、1973年には1億304万が計上されます。

 IOF加盟によって、国と民間の巻き込みに成功したのでした。

 

 もう一つのIOF加盟による大きな変化として、個人で行うオリエンテーリングが上陸したことでした。それまでは徒歩ラリーとして、グループで歩きのみで行うオリエンテーリングを行っていましたが、IOF加入によって役員が来日しIOFの競技規則が日本に知られることになります。

 個人形式&走ってよいオリエンテーリングの最初の大会は、当時SILVAの社長の息子で東大に留学中だったトッド・チェルストロムが監修し行われました。

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日本初の国際方式のオリエンテーリング大会。田園都市線市ヶ尾で。それまでは、スタートが△でなかったり、位置説明はついてなかった。


 日本では、徒歩オリエンテーリングオリエンテーリング(個人方式)という二つの形式でオリエンテーリングが広まっていくことになります。

 

●普及の戦略

 1億円近い予算を獲得した紺野さんはどのようにオリエンテーリングを普及していったのでしょう。紺野さんが整備した枠組みが今のオリエンテーリング界を形づくっています。その取り組みについて重要なものについて、見ていきたいと思います。

 まず1つ目は、競技規則と地図規則の整備です。これはIOFからの情報や、海外に派遣して国際基準に合わせつつ整備していきます。
 2つ目は、組織の整備です。まずJOAの前身である日本オリエンテ―リング委員会を組織し、そののち地方組織を整備していきました。地方組織は主に地方自治体か高校に設置されました。1976年には47都道府県すべてにオリエンテーリング委員会が発足します。この仕組みが今の都道府県協会制に引き継がれます。

 3つ目は、指導者育成です。組織を作っても、まだ日本にはオリエンテーリングについての知識がまったくありません。ルールや地図の読み方、大会運営方法それらの情報に詳しい人は紺野さん含め国内に数人にしかいませんでした。その知識を広めるために全国各地で指導者講習会を行いました。

 4つ目は、全国でのオリエンテーリング大会の促進です。鉄道会社と組みながら沿線にパーマネントコースを設定し、開設記念大会の実施。1975年には全国で300万枚の地図が使用されたそうで、当時は家族やグループの参加だったことを考えると述べ1000万人以上の参加がありました。

 また、新聞社とも協働し読売新聞大会などの冠大会を実施していきます。1974年の読売大会では7824人の参加がありました。(赤根に7000人が押し掛けた。市民マラソンの元祖である青梅マラソンの4397人を超える規模で市民スポーツとしての最も早く盛り上がったともいえるかもしれません。)

 紺野さんの取り組みにより、オリエンテーリングは一気にブームを迎え、オリエンテーリングを知っている人→やったことある人→愛好者が生まれるようになっていったのです。

 そしてこれらの取り組みは、「みんなのスポーツ」を標語に実践されました。「みんなのスポーツ」という大義があったからこそ、ここまで国や民間を巻き込んだ普及活動ができたのです。

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読売新聞1969年5月1日朝刊。読売新聞は3面全部オリエンテーリングを特集してくれたこともあった。

 

 

 

「みんなのスポーツ」とO-Ringen

 ここまでの流れをまとめると、スポーツの大衆化と競技力の向上の両立を目指した「みんなのスポーツ」運動は、大島の東京オリンピックの成功があってこそ始まり、その先鋒としてオリエンテ―リングが日本で普及されていったのでした。そして、紺野晃さんの普及活動によってオリエンテーリングに出会った、次の世代がオリンテ―リングの発展を担っていきました。

 では、「みんなのスポーツ」はオリエンテーリング界に今も残っているのでしょうか。それを僕はO-Ringenに見出しています。

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世界チャンピオンから老人と子どもまで一同に会す



 O-Ringenは毎年7月下旬にスウェーデンで行われる世界最大規模のオリエンテーリング大会です。2~3万人の参加者が世界各地から集まり、6日間にわたってレースを行います。参加者はクラブ単位で参加し、クラブの仲間たちとキャンプやコテージ等を借りて大会を楽しみます。

 3年前自分もオーリンゲンに参加しましたが、その規模に圧倒されると共に、何よりもレベルや年代に関わらずオリエンテーリングを楽しんでいました。そのオリエンテーリングの楽しみ方の多様さにとても感動しました。忘れられない大会です。

 

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おしゃぶりをしたお孫さんと嬉しそうにスタートに来たおじいさん。人生を通じてオリエンテーリングが楽しまれている。



 

 そして、実はオリエンテーリング普及初期においてもO-Ringenは「みんなのスポーツ」の理想が現実の姿として現れたものとしてオリエンテ―リングの普及関係者を魅了していました。1973年に参加した日本オリエンテ―リング委員会の事務局長の猪川清の言葉を引用させてもらいたいと思います。

 

 

10才から70才以上の人びとまで,しかも国際級のエリート選手も,昨日はじめたばかりの初心者も同じゲレンデで45000の大観衆の応援のなかを懸命にゴールインする姿,最初のゴールインから最後のゴールインまで12000人の人びと(おとなも子どもも)がつぎからつぎへ約5時間にわたって,流れる人間の川のようにゴールインする姿,これこそファミリー・スポーツであり,「みんなのスポーツ」である,”社会体育”という観念上の言葉がここに現実の姿となって展開されていることを,参加した日本人の人びとはこの目で見,この身体で体験したことが何よりの成果であった.

 山形県から参加した62才の後藤さんはこの状況を見て感動のあまり,まぶたが熱くなって泣けてきたと私に語った.(中略)

 「参加することにこそ意義がある」といったオリンピックの父・クーベルタンの言葉どおりの,「すべての人びとのためのスポーツ大会」がここに存在するのである.(中略)

 21世紀のスポーツといわれるオリエンテーリングは,すぐれた大衆性をもっている点で,国民の体力つくり運動推進の大きい柱となる資格をいつまでも失わないであろう.「みんなのスポーツ」―社会体育の夜明けの幕を引くものは,オリエンテーリングであるということを信じて疑わない.(猪川 1975: 53-55)

 

 熱くO-Ringenを語られています。O-Ringen、そしてオリエンテーリングに理想を見た先人たちが最初の最初のオリンテ―リングを支え育ててくださったのです。そして、その理想は時を超えて、今もO-Ringenにみることができると思います。

 

●終わりに ―「人生に野遊びを」―

 オリエンテーリングの誕生秘話を書かせていただきましたが、歴史を振り返ってみて、これからのオリエンテーリング界を考えてみると、自分は「オリエンテーリングは文化である」ということを心にとめることが一番大切かなと思っています。大島の「みんなのスポーツ」とは今の時代に読み替えれば、スポーツを「文化」として捉えて楽しむことだと思います。競技で勝つことだけが、大会に出ることだけで全てではなのではないです。

 昨日の高野さんはピーマンの肉詰めの話をされていたので、料理で例えてみると、プロのシェフもいれば、家で自分のため友人のため家族のために作っている人もいます。そして、それぞれの料理に個性があります。また、料理がうまければ偉いというわけでもないです。そして自分のためだけに作る料理より、人のために作ってみんなで食卓を囲むとよりおいしくなったりします。それを人は食文化と言ったりします。

 そんな風にオリエンテーリングでも仲間を作って、一緒にトレーニングしたり、大会に参加したり、ある時はオリエンテーリングを教えたり、ご飯を一緒に囲んでオリエンテーリング談義に花を咲かせたり。そんな風にオリエンテーリングを楽しむというのは何歳になっても人生を豊かにしてくれると思っています。

 

「人生に野遊びを」by Snow peak

 

これからも一緒にオリエンテーリングを楽しんでいきましょう。

 

 

※今回の内容は2018年度東京大学文学部社会学研究室卒業論文「日本におけるオリエンテーリングの成立―体力つくりとスポーツの狭間で─」に基づいて書いています。卒論は社会学研究室の優秀賞にも選んでいただけました。嬉しい。

 

※内容としては、卒論の3割くらいです。他にも、「競技者」の誕生(「優勝」を目指す柳下惇夫物語)や、O-Mapの発展(元祖巨匠たちの物語)、全英チャンピオン杉山隆司という黒船、徒歩OLとオリエンテーリング(国際方式)の闘争と紺野晃の苦悩など、オリエンテーリングの歴史は面白いので、興味ある方は卒論フルバージョンも読んでいただければと思います。興味ある方は連絡ください~。

 

※改めて卒論でお世話になった祐成保志先生,国沢五月様、船橋昭一様,高村卓様,池ヶ谷悦朗様.柳下惇夫様,豊島利男様,山川克則様,青木高様,長谷川純三様,小笠原揚太郎様,寄金義紀様,紺野晃様,森川正己様,見上和美様,加藤隆幸様,山岸夏希様.日本オリエンテーリング協会事務局様にお礼申し上げます。ありがとうございました。