オリエンティア Advent Calendar

オリエンテーリングを語ろう。

徒歩OLとはなんだったのか

トータスの国沢五月です。

オリエンテーリングを始めてまもなく40年になります。今回の執筆者の中でも1、2を争う古さですかね。

この歳になっても四六時中オリエンテーリングの事を考えているため、いろいろと書きたいことはあるのですが、今回は温故知新のアプローチで日本オリエンテーリング黎明期の話を書いてみることにします。

 

日本オリジナルのオリエンテーリング「徒歩OL」とは?

 

みなさんは「徒歩オリエンテーリング(略称:徒歩OL)」って聞いたことがありますか?

去年、JOA50年イベントで久しぶりに開催されたので、そこで知った人もいるかもしれません。

ちなみに私も40年前、その徒歩OLをきっかけにオリエンテーリングを始めた一人です。

もし聞いたことはなくても、あなたが他人にオリエンテーリング」をやっているというと、特に年長の方から

「あー、あのみんなで歩く奴」

とか

「途中でお昼ご飯食べたりするんでしょ?」

とか

言われたことはありませんか?

そう、それがまさに「徒歩OL」です。

 

徒歩OLの特徴は・・・

  1. 個人ではなく、グループ。
  2. 走ったら失格。
  3. 入賞が時間帯で決まっていて、早くても遅くてもダメ。

などなど・・・

このユニークなルールのオリエンテーリング日本のオリジナルです。

そして、実はそんな不思議なオリエンテーリングが、かつて日本で一大ブームを起こしました。

参加者は数百人から数千人。全国で大会が開かれ、個人クラスより多くの参加者を集めていました。

例えば1974年5月に開かれた「読売全国大会」では、個人クラス885人に対し、徒歩はなんと6941人!

この巨大オリエンテーリングイベントは、日本史上最大の規模で、今もその記録は破られていません。

そう、かつて日本では、徒歩OLがオリエンテーリングの主流だった時代があったのです!

 

日本初の「徒歩ラリー」、そのユニークなルールとは?

 

驚くべき大ブームだった「徒歩OL」。まずはその歴史を紐解いてみましょう。

ものの本によると、オリエンテーリング日本最初のイベントは、1966年高尾山で開かれた「徒歩ラリー」とされています。下記の新聞記事を見ると、参加者は150人ほどだったようです。

 

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「第一回徒歩ラリー」の読売新聞記事。当然オリエンテーリングのオの字すらない。「自然に親しむ明るい仲間づくり」「標高、風向き、風速、温度、雲量を測定しながら」等突っ込み所が多いが、一番は「午後四時過ぎに無事完走完走賞を受けた」って、「徒歩ラリー」では?

 

 この「徒歩ラリー大会」読売新聞社が主催したイベントでしたが、これがまさに「徒歩OL」の基礎となるべきものでした。

 

その要項を見てみると、

 徒歩ラリー:ただ歩くだけではつまらない。自動車のラリーの要素を取り入れた新しいスポーツ

と、書かれています。

 

さらに要項から、その特徴を挙げてみましょう。

・3~10人グループで行う

・地図は国土地理院地図をそのまま利用

・マスターマップ(自分で書き写す)

・ポイントOLまたはラインOL

 1チーム最大10人って、結構な人数ですよね。

またポスト位置を書き写す「マスターマップ」は徒歩OLの定番でした。

当時私もやりましたが、慣れないうちは結構ハードルが高く、きちんと正しいポスト位置を写し取れるかも、競技の一部でした。またラインOLで行われたイベントも多かったようです。

・距離8~10km程度

・走ると失格。

・途中で選手が脱落しても失格。

走っちゃダメなわりには、結構距離が長めです。

実際、トップでも4時間程度、長いチームは6時間とかかかっていました。

また脱落も結構あったようで、運営側も途中でやめるチームのエスケープをあらかじめ想定して、車が入れる場所を選んだりしていたようです。

 

そして、ユニークなのはここから。

・チェックポイントは有人。

チェックポイントに行くと、役員が2人いて、チェックカードにスタンプを押しれくれます。この時、まだポストフラッグは出現していませんでした。

・スタート前に、地図読み講習と天気図を読む講習がある

地図読み講習は参加者必須でした。それに加え、天気の講習があるのが面白いですね。ただし天気図講習はさすがに数年後には無くなります。

・30分間昼食を取るポストがある。

チェックポイントに着いてここで昼食を取ると決めると、30分間昼食の時間を取ることができました。その分は競技時間から引くことに。なんて牧歌的!

有人チェックポイントだからこそできたんでしょう。長時間かかることが前提だったことがわかります。

 

そしてもう一つ大事な特徴が・・

・参加費は無料!

・参加賞がコンパス!

参加費がタダでコンパスも貰えるとなったら、そりゃ出ますよね!

記録によると、ヤクルトや資生堂など当初から有名企業がスポンサーについていて、大会開催の費用を負担していたようです。

またこの参加費無料、徒歩OLが全国的に広まっていく中でも継続していきます。これが参加者が増え続けた理由の一つなのかもしれません。

 

ということで、この「徒歩ラリー」当初からかなり練られたイベントだったと思いませんか? 

これを具体的に考案したのは誰なのか、そもそもなぜオリエンテーリングを参考にしながらこういう形になったのか、残念ながら残っている資料からはその詳細なことはわかりません

ただ主催者は「山や自然を知ること」そして「徒歩(走らない)」「手軽さ」さらに「ゲーム性」にこだわっていることが、ルールから見て取れます。

またこの徒歩ラリー、「タイムレース」とされ、速い順に表彰もあったようです。徒歩の割りには意外と競技的だったようですね。

 

「徒歩ラリー」から、「徒歩オリエンテーリング」へ

さて、こんな形で開催されはじめた日本独自のオリエンテーリング「徒歩ラリー」。

まずは主催である読売新聞や報知新聞で周知されることで、広まっていきます(記事には、最近静かなブームになっている、と書かれています)。

さらに鉄道会社とも連携をして、関東近郊の様々な場所で開かれるようになり、それから4年の間に20回ほど徒歩ラリーを開催。数百人レベルの参加者を得るようになりました。

 

そんな市民権を得始めた「徒歩ラリー」に転機が訪れます。

それは1969年、日本が国際オリエンテーリング連盟(IOF)へ加盟。

それに伴い日本オリエンテーリング委員会(略称JOLC)が結成されたのです。(ちなみに加盟が先で、JOLC設立の方が後でした。面白いですね)

 

ついで翌70年の3月、徒歩ラリーのイベントにはじめて

オリエンテーリング(個人参加で走ることに自信がある人で競う)」

種目が加わります。(下のチラシ参照)

これが日本で最初に行われた、競技オリエンテーリングイベントでした。

 

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 1970年3月、日本最初の競技オリエンテーリングが開かれた時のチラシ。個人で参加するには、走ることに自信が必要だったよう。定員も各クラス15人とびっくりするほど少ない。

 

そして同じ70年の4月より、読売新聞主催の徒歩ラリーもいよいよオリエンテーリングの名称に変更されます。

個人で走って良い「オリエンテーリング」と比べ、従来の徒歩ラリーを「徒歩オリエンテーリングと呼ぶこととなったのです。一方で、これ以降、個人で走ってよい「オリエンテーリング」は「国際方式」とも呼ばれるようになります。

「徒歩オリエンテーリング」は、そのルールは「徒歩ラリー」と違いませんでしたが、唯一「入賞」の概念は見直されました。それまではタイムレースだったのが、入賞時間帯という概念を導入。これは走ってタイムを競う国際方式とその性格を分けるためのものだったと思われます。

 

ちなみにこのオリエンテーリングという用語、導入時期には様々な混乱があり今見ると面白いです。

平然とオリエンテーションと紹介する雑誌、「オリエンテェアリング」と発音に忠実な表記する例も。

一方、オリエンテーリングの訳語もいろいろとあり、導入した社団法人国民健康・体力つくり運動協会は「山野跋渉運動」と訳していますが、ある記事ではオリエンテーリング(探索)」さらにオリエンテーリング(帰巣本能運動)」などの珍訳も。

ネットもない当時、海外からの十分な情報もなく、オリエンテーリングがいったいどんなスポーツなのか想像もできなかったのでしょう。

 

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 雑誌の記事より。全体にオリエンテーリングの紹介としては結構正しいのだが、なぜオリエンテーリングの日本語訳が「帰巣本能運動」になったのか・・・・

 

「徒歩OL」ついに大ブレーク!その理由とは?

 

さて、ここから「徒歩OL」は爆発的な発展を遂げていきます。 

1970年以降、全国各地でオリエンテーリング大会が開かれるようになります。

73年には全国300を超える会場でオリエンテーリング大会が開かれ、そのほとんどが徒歩OLのイベントでした。

 

例えば1973年に開かれた「国際親善大会」。これはスウェーデンなどから数十名のオリエンティアが招かれ、日本初の国際オリエンテーリングイベントとして開催されました。

この時、主催の読売新聞は8ページにも及ぶオリエンテーリングの特集記事を掲載(東京オリンピック以上だそう)、さらに3000通を超えるDMを発送、また西武鉄道各駅にもポスターを掲示するなど徹底的な広報戦略を行いました。その結果、4000人近い参加者(多くが徒歩OL参加者)を集めています。

なお、当時のオリエンテーリングニュースの記事によると「本格的に参加費を集めたイベントで、これだけ参加数を集めたのは画期的」とされていて、各地で行われていたオリエンテーリングイベントは無料が当たり前だったことがわかります。

 

そして1974年から75年にかけて、徒歩OLのイベントはピークを迎えます。

 

1974年5月「読売全国大会」個人885名 徒歩6941名 計7826名

1974年9月「第1回東日本大会」個人1029名 徒歩3462名 計4491名

1975年3月「第1回全日本大会」個人1123名 徒歩4176名 計5299名

 

個人競技の発展もめざましい一方、オリエンテーリング導入されてから10年近く経っても、規模だけみれば、その主役はやはり徒歩OLだったのです。

 

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日本史上最大の大会を伝えるOLニュースの記事。実際は8千人弱だったので、流石に1万人は盛りすぎでは。なお、下段のデサントオリエンテーリングウェアにも要注目。

 

国を挙げて取り組んだ「徒歩オリエンテーリング

 

さて、大ブームとなった徒歩OL。なぜここまでの広がりを見せたのでしょう?

まず見逃せないのが、国の強力なバックアップです。 

1970年からわずか数年の間に、オリエンテーリングは驚くべき発展を遂げます。

指導員制度の開始パーマネントコースの全国展開100kmコンペ都道府県にオリエンテーリング協会を設置年に一回各県でのオリエンテーリング大会を義務づける等・・・

オリエンテーリング発展の施策がわずか数年の間に矢継ぎ早に展開されました。そしてそのほとんどが「徒歩OL」を軸にしたものだったのです。

そのきっかけとなったのが、ある“国の施策”でした。

1964年に閣議決定をされた「国民の健康・体力作り増強対策について」東京オリンピックを契機に、立ち後れた日本国民の体力を増強しようという国を挙げた取り組みでした。

その「健康体力づくり国民運動」の中心的な活動として、70年「全国に体育施設の拡充」「健康調査の実施」などと並びオリエンテーリングの普及」が選ばれたのです。

それにより大規模な資金の投下、県協会などの組織の形成が国の旗振りの元、圧倒的な速度感で達成されていきました。

オリエンテーリングニュースによると、1974年に年間9000万円近いオリエンテーリング関連予算が計上されたとあります。物価を考えれば、現在の数億円規模の額が毎年オリエンテーリングに投下されたわけです。今から見れば夢のような話ですね。

 

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駅前や電車内に掲示されたパーマネントコースや大会の告知。時代を感じる絵もさることながら「用意するものは地図、磁石、赤と青のボールペン、昼食、そしてあなたです」のコピーも味わい深い。

 

「みんなのスポーツ・オリエンテーリング」の真意

 

そうした国の施策だけでなく、当時、日本の社会にも、この新たな市民スポーツを受容する機運が盛り上がりつつありました。

 

例えば、徒歩ラリー開始の翌年、1967年には第一回の青梅マラソンが開催されています。それまで一般市民が参加可能なマラソンレースは無く、これが日本ではじめての「市民マラソン」でした。

同じ頃、盛り上がりを見せ始めていたのは「歩け歩け運動」です。

60年代から、ウオーキングが注目され、65年に富士山から日本橋まで150kmを歩く「国民歩け歩け運動大会」が企画、67年には大阪で3500人が参加する「歩け歩け運動」が開催されるなど、広がりを見せ始めていました。

また、登山はレジャーとして一般的で、特に1953年のエベレスト登頂、56年のマナスル登頂をきっかけとする登山ブームが起こっていました。ところが谷川岳での遭難が相次ぎ66年に谷川岳遭難防止条例が設定されるなど、登山の危険性が喧伝され始めた時期でもありました。

「徒歩ラリー」の当初、天気図の読み方講習などがその競技に組み入れられていたのはそうした背景があったからかもしれません。

 もう一つ無視できないのが、国土を覆う地図の普及です。

それまで国土地理院による基本図は5万分の一でしたが、1964年第二次基本測量長期計画で2万5千分の一地形図が本格的に全国整備を開始します(83年に完成)。

徒歩OLは、当時最新のメディアを利用した新しいレジャーだったんですね。

 

徒歩OLは、当時の日本の置かれている様々な状況から生み出された、ユニークなムーブメントでした。それはそれまでに盛り上がりを見せていたウオーキングやハイキングの進化版であり、まだ市民にランニング文化が根付く前の「市民スポーツ」の萌芽だったのです。

当時のオリエンテーリング関連の文章を読むと「スポーツをエリートの手から取り戻す」というフレーズをところどころで目にします。64年の東京オリンピックを経た日本の空気に、スポーツが一部の特殊な人たちのものになってしまったのではないか、という声があがっていました。

導入以来からの標語である「みんなのスポーツ・オリエンテーリングは、そうしたエリートスポーツとの対比として使われたものと考えられます。

そして確かに徒歩OLは老若男女、誰でもが気軽に楽しめる「みんなのスポーツ」でした。

 

「徒歩OL」が教えてくれるもの

 

日本でのオリエンテーリングの普及を担い、社会現象というべきブームにもなった「徒歩オリエンテーリング」。

しかし70年代後半から、徒歩オリエンテーリングは次第に衰退へと向かいます。

1976年には全日本や東日本でも参加者数は個人に抜かされ、その後もオリエンテーリング普及のための併設的なイベントとして継続されていきますが、数は伸びず、最終的には2005年、JOAが「徒歩オリエンテーリング実施基準」を廃止、39年の歴史を閉じました。

いったいその限界はどこにあったのでしょうか。 

まだ資料に当たれていないので正確なことはなんともいえませんが、ここまでの調査で感じるのは、国の施策に乗り一気に広がったが故の悲運だったのではないか、ということです。

 

「国民体力づくり運動」が落ち着き、オリエンテーリングに流れていた大量の資金が止まると、オリエンテーリングの発展は自治体組織から愛好者の手へと委ねられました。

その後、競技オリエンテーリングが発展していく中、「徒歩OL」は、かつて数千人を集めたそのポテンシャルにもかかわらず、古い組織が作り上げた旧態依然の象徴とされ、オリエンテーリングの発展を拒む「遅れたもの」として捉えられました。

幅広い年齢層が気軽に参加でき、2.5万の既成の地図を使えば、運営者にも手軽に開催できた徒歩OLは、その手軽さ故に、またあまねく広がりすぎたが故に、スポーツとしてのオリエンテーリングを担う層からは軽んじられ、結果、廃れていったのではないか、との仮説を立てていますが、詳しい分析はまた別の機会に譲りたいと思います。

  

ここまで長々と徒歩オリエンテーリングについて書いてきましたが、まとめとして思うのは、やはりスポーツの発展には、その背景にある社会の動きが密接に関連しているのだな、ということです。

2度目の東京オリンピックが近づいている今、これからの日本でのオリエンテーリングの普及や発展を考えていく上で、何をアピールしていくべきなのか、徒歩OL発展の歴史はいろいろなことを示唆してくれていると思います。

 

ちなみに偶然ですが、同日(12/10)にもう一つのadvebt carenderで公開された福西さんの記事「OMMとオリエンテーリングの関係性」https://fukunishi-yuki.blogspot.jp/2017/12/omm.htmlも、最新オリエンテーリング類似イベントの分析から、改めてオリエンテーリングの普及や魅力について考えさせる内容になっていて、併せて読むとより立体的な視野で捉えることができるかもしれません。

 

最後に。今回、同じトータスの小柴君より、このadvent calendarに執筆する機会を与えていただきました。ありがとうございました。また、写真提供はじめ、この文章の執筆にご協力いただいたJOA事務局の濱宇津君にも大いに感謝します。

そして、読んでいただいたみなさま、最後までこの長文にお付き合いいただき、ありがとうございました! 

 

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おまけ。第1回全日本大会優勝者欄より。意外にふくよかだったんですね。

好きな言葉は「真面目に生きる」・・・へー、なるほど。(この写真は本文とは関係ありません)