オリエンティア Advent Calendar

オリエンテーリングを語ろう。

ナヴィゲーション・スポーツという視点

1974年、14歳のときからオリエンテーリングをして、今や40年以上。日本選手権をとった後、協会の副会長に上り詰めました。絵に描いたような出世物語ですが、もちろん物質的な報酬は皆無です。この40年間で多大な精神的報酬を得たことが、現在の活動の原動力です。

 今回、小柴君に誘われたので、日頃考えている「ナヴィゲーションスポーツ」」という考え方を紹介・提案したいと思います。日本オリエンテーリング協会副会長という公的立場ではなく、個人の立場からの提案です。

 

 

1.ナヴィゲーションスポーツとしてみたオリエンテーリング

 走競技という言い方がある。走る競技だから走競技。100m走も、3000m障害も、マラソンもみんな走競技だ。100mに要求されるものとフルマラソンに要求されるものは相当違う。だが、走ることを競うという共通性がある。このことを敷衍すると、ナヴィゲーションスキルを競うスポーツがナヴィゲーション・スポーツということになる。もちろん、オリエンテーリングはナヴィゲーションスポーツの代表格であり、本家でもある。いくつものスポーツがそこから分家していった。中には日本において本家をも凌駕する人気を博しているスポーツもある。そのような現状の中で、ナヴィゲーションスポーツという概念で考えることの意義、ナヴィゲーション・スポーツをどう捉えるべきか、そして「家長」として一族を繁栄に導く戦略について、考える。

 

2.ナヴィゲーションとは?

1)ナヴィゲーションとは?

 ナヴィゲーションスキルとはどのようなものかを確認しておこう。動物は移動ができるだけでなく、元いた場所に戻れる能力を持っている。だからこそ食物を確保すると同時に、次世代を養い、種が保存できる。元居た場所に戻れるためには、空間関係を把握したり、目印によって把握した空間の中で適切に移動できる能力が不可欠である。これは動物行動の研究テーマの一つともなっている。これを定位と呼ぶ。

 とりわけ、注目を集めたのが、直接的な記憶に頼らないナヴィゲーションである。アリですら、ジグザグに歩いた後、経験したことのない近道を通って元の場所に戻ることができる。そのことから、未知の場所でのナヴィゲーションでは、空間関係を把握する能力やそれを元に目的地の方向を定位する能力が活用されていると考えられる。

 オリエンテーリングの場合、定位はあまり重要な役割を果たしていない。なぜなら空間関係はその都度地図から読み取ることができる。目的地への方向もコンパスの手助けで把握できる。だから方向音痴を自認する鹿島田浩二のような選手でも、オリエンテーリングでは日本一になることができるのだ。

 では地図を使った目的地へのナヴィゲーションはどのような能力やスキルによって支えられているのだろうか。それを知ることが、ナヴィゲーションスキルを高めたり、教えたりすることの基礎となる。1970年代にオリエンテーリングの普及にあたった日本オリエンテーリング委員会(JOLC)では、その普及のために指導員制度を作り上げた。だが、当時、ナヴィゲーションを構成する課題も、それを解くための能力やスキルも、個々の指導員の経験以上には分かっていなかった。地図の見方を教えるといっても、個々の記号を教えるくらいのことしかできることはなかった。

2)地図が読めるとナヴィゲーションができるは違う

 オリエンテーリングで速くなろうと努力したことのある人なら、誰でもナヴィゲーションがどのような問題解決であり、そこにどのような資質が必要かはある程度理解しているだろう。競技スポーツであるオリエンテーリングをしている人間から見れば、それを身につけていることは当たり前のことに思える。しかし、一般的にはそうではない。

 私が長年のオリエンテーリングのトップ選手としての経験と空間認知やナヴィゲーションの研究を元に、2001年に登山向けのナヴィゲーションの本を初めて書いた時、オリエンテーリング競技者にとって当たり前のスキルが、実はかなり特別でスキルであること、そのスキルを修得するには学習や多くの努力が必要なことを改めて痛感した。オリエンテーリング競技者がごく当たり前のようにやっていることは、一般の登山者から見れば、ほとんどTVでリプレイされるようなスーパープレイである。

 質問紙レベルだが、多くの登山者に基礎的な地図読みとナヴィゲーションスキルの自己評価を要求した私の研究によれば、基礎的な地図読みとナヴィゲーションスキルには高い関連があるが、統計的な分析の結果からは、両者は別個の潜在能力によっている。たとえば、地図から目的に応じて必要な情報を選択するスキル(ルートプラン)風景の中から必要な情報を選び取るスキル(風景読み)、地図と風景を対照されるスキル(現在地把握やルート維持)、曖昧さによる道間違いのリスクに対応するスキルなどが必要になる

3)ナヴィゲーションスキルの核心

 さらに掘り下げると、ナヴィゲーションのスキルの中の核心は、不確実性に対応するスキルだと僕は考えている。これはレース中どんなことを考えているかを振り返ってみれば納得できるだろう。まず移動に伴い現在地には不確実性が生まれる。「ここだ!」と思ってはみても、そうではないかもしれないと疑問に思うことは、難しいコースであればあるほど希ではないだろう。疑問に思うことは競技中の不安をもたらすが、不安に現実的に対処することで、その不安が的中した時(最もありそうな場所にいた時)のロスタイムを最小限にすることができる。

 不確実性に対処するのは現在地の把握の局面だけではない。自然の中ではたとえコンパス直進をしても思い通りの方向に進めるとは限らない。自分の直進でどのくらいの誤差が出るかを予め予測することで、その誤差に備えてルートをずらすことはよく行われる。これがオリエンテーリングのテクニックとしてよく知られたエイミングオフである。エイミングオフは、少しの投資で、もし思い通りに進まない時の損失が大きくなりすぎないようにするための工夫だ。少しの投資で、大きなダメージの発生を抑えることはリスクマネジメントの基本だが、オリエンテーリング競技者は、「リスクマネジメント」と意識しないで、その考え方を日々実践していると言える。

 

3.スポーツが変質する時代 

 東京五輪ではスポーツクライミングが種目として採用された。所轄は日本山岳協会である。特に先鋭的な登山においてロープを使うクライミングは必要不可欠な構成要素だ。そこから、一般の人が考える登山からはかなり遠い位置にあるスポーツクライミングが生まれた。昨今はスポーツクライミングはやるが山を全くやらない競技者も増えているそうだ。東京五輪の種目としてスポーツクライミングが採用された時には、マスメディアから「なんで山岳協会がクライミングを主管しているのか?」みたいな話になって、とうとう協会を「山岳・スポーツクライミング協会」に変えてしまった。旧来の登山に強い思い入れのある会員からすれば、本末転倒というか庇を貸して母屋を取られた気分だろう。しかし、所詮名称など序の口である。

 スポーツクライミングの一種にボルダリングがある。その名のとおり、大きな岩を使ってクライミングのスキルを競う競技である。今では原宿辺りに沢山ジムがある。うちの研究室に配属が決まった女子学生がボルダリングをやっているというので、「山とかも登るの?」と聞いたら、「え、ボルダリングと山と関係あるんですか?」とのたわった。山には登らないクライマーがいるとは聞いていたが、衝撃を受けた。しかし、それもまだまだ序の口だった。今度は研究室でクライミング用のロープを裁いていたら、その彼女が「先生それなんですか?」と聞いてきた。自分が使っている技術がどんな文脈で生まれたかに無自覚なのだ。思わず八木原さん(日本山岳協会の会長。オリエンテーリング協会会長山西先生のお友達)に言ってしまった。「五輪種目になったからって喜んでいる場合じゃないですよ。こんな子がさらに増えちゃうんですよ。そのうち、なんでスポーツクライミング協会に『山岳』って付いているんですか?って言われちゃいますよ。」スポーツの普及・発展を図ろうと思えば、このようなアイデンティティーの危機とうまく付き合っていかなければならない。

 IOFは、オリエンテーリングはグローバルスポーツだと言っているが、明らかに環境に根ざしたスポーツであり、特に現在のオリエンテーリングの形態は北欧の環境に根ざしたものだと思う。オリエンテーリングがこれほど発展したのも、精緻なナヴィゲーションを要求するオリエンテーリングという競技にとって、比較的平坦な微地形が発達した北欧が絶好の環境を備えていたからだろう。それは間氷期において氷食の影響が残る北欧という地理的位置づけの賜でもある。そもそも精緻な地形とどこまでも自由に歩ける森がなければ、軍人という職業上必要な斥候訓練が、他方で興味深いゲーム性を持ち、それを民間に持ち帰ってスポーツとして実施しようことにはならなかっただろう。

 環境が異なれば、提供可能な面白さも異なる。ナヴィゲーションが環境に依存するオリエンテーリングは、その地の風土・文化に見合った形で発展した。たとえば、オーストラリアでは24時間という耐久的な競技であるロゲイニングが生み出された。彼の地の広大だが大味な地形の元では北欧的なオリエンテーリングの適地は限られていただろう。むしろ、持久性とグループでの協働という付加的な要素を必要としたのだろう。あるいは、登山や荒野でのウォーキングが盛んで、自律的に世界各地を探検していた歴史を持つUKでは、登山の生活技術を融合することで1泊2日分の必要な装備を背負って自己完結的に移動するオリジナルマウンテンマラソン(OMM)が生まれた。あるいは、総合力と臨機応変さを要求するアドベンチャーレースでは、一方でパリダカールラリーを母親としてフランスで生まれた。徒歩オリエンテーリングやグループ競技であるロゲイニングがフォト形式による街ロゲ主体の競技になったのも、おそらくは日本の自然・文化環境に適応してのことだろう。適しているからこそ、広くどこでも実施できる。無理なく愉しさが味わえる。

 個人的なことだが、歳をとると視力が低下する。視力が低下すると走りながらの地図読みがちっとも楽しくなくなってしまう。ハヅキルーペやマグニファイアを試すのだが、これといった決めてがない。また加齢とともに最大心拍数が下がるので追い込んだレースは辛くなる。50歳を過ぎると命の危険性にすらつながる。一方で長い距離は耐えられるようになるし、達成感もある。年齢によっても楽しめるものが変わってくる。

 規則に従い競技場が整備される一般的なスポーツでは、環境への適応は限定的だが、それでも文化的には適応していく。「野球」は「ベースボール」とは違うといったことが、20世紀には言われていた。サッカーでも日本が初めてワールドカップに出場するころまでは、それぞれの国にそれぞれの文化に根ざしたプレースタイルがあった。トップ選手の目からみれば、草野球はもはや野球とは言えないかもしれない。だが、草野球は野球ではない、そう言ったら少年達は野球を目指しようがなくなる(先日も、野球人口の減少に危機感を抱いたプロたちが軟式野球の指導をしたというニューズがあった)。異なる文化や考え方を持つ人には異なるプレースタイルがある。オリエンテーリングが基本的に間口の狭いスポーツであることを自覚して、その間口を広げることで、互いに豊かな実りを享受することが賢明だろう。

 そのためには、時に変質を積極的に進める必要もある。ソフトバレーボールという種目がある。それ以前に学校でも行われていた「本当の」バレーボールをして、手が痛くて嫌だった人は少なくないのではないだろうか。学校体育でそんな思いをすれば、バレーボールをしたいと思う人は減る。興味を持つ人が減れば底辺へのダメージとなる。底辺が小さくなればタレントの発掘も難しくなる。ソフトバレーボールはそうした問題意識から生まれ、促進されているものである。

 あるいは、かつてトライアスロンは約1時間の水泳と5時間以上の自転車と3時間以上のフルマラソンを続けてやる、まさに「鉄人レース」だったが、五輪種目では時間にしてその10分の一程度の種目になってしまった。必要とされる能力に関しては、全く違うだろう。得られる愉しみも相当変質しただろう。最初は強い批判もあったと聞く。しかし、彼らは選択した。今や「鉄人レース」という言葉も死語になりつつある。

 

4.ナヴィゲーションスポーツの限界と可能性

 周辺スポーツと共存してオリエンテーリングを発展させる時、核になるのはなにか。その問いに対する私の答えが「ナヴィゲーション」だ。形式もプレースタイルも異なるが、その根底には共通するスキル「ナヴィゲーション」がある。ただキャッチボールをしているだけでは、そのうちつまらなくなるだろう。広がりもない。「ボールはこんなふうに扱うともっとプレーが面白くなる。」キャッチボールの面白さに共感しながらも、それを提示していくことが、双方にとって利益を生む。

 先日静岡からOMMに出場した方々8人の打ち上げ会に誘われて出席した。ナヴィゲーションがなかなかうまくなれないという人を静岡OLCに誘ったら「オリエンテーリングは高学歴の方がやっているから・・・」と言って婉曲に断られた。かつて「ニューズウィーク」に、アメリカのオリエンテーリングの状況が紹介され、そこでもオリエンテーリングは比較的高学歴のスポーツとして紹介されていたから、この傾向は日本だけのものではないのだろう。

 高学歴というのは一面では事実だが、私はむしろオリエンテーリングは自律的で自己完結的な人のスポーツだと思う(自律も自己完結も、もちろんいい面も悪い面もある)。私が大学クラブで活動していた時に、ある後輩の女性がクラブを離れる時に書いた文章が今も忘れられない。「オリエンテーリングは自分を律することのできる人には楽しいスポーツかもしれないですが、私には厳しすぎました。」そんな内容のことが書いてあった。自律的で自己完結的であることは、学歴以上に、オリエンテーリングスタートの大きなハードルになっている可能性がある。

 家族とフォト形式のロゲイニングを愉しんだ子どもが、自分たちが200点とって頑張ったと思っている脇で、同じ時間で1500点も取るアスリートがいれば、当然それに対する畏敬の念を感じるし、中にはどうしたらそんなに点が取れるのか、走れるのかと考えるだろう。等高線を読むことが少しづつできるようになり、たどたどしく地図上で尾根線をたどれるようになった登山者が、鼻歌交じりにあっという間に地図全面に尾根線を引くことのできるナヴィゲーターを見れば、自分もそうなればもっと登山が楽しめるようになると思うだろう。多少の脚色こそあれ、これらは私がここ10年の活動の中で日常的に目にしてきた光景である。

 共有できる価値を媒介にすることは普及にメリットがあるだけでなく、トップ選手のモティベーションを底支えする意義がある。ここ数年、東京で明治時代の地図を使ってナヴィゲーションをするという遊びをやっている。明治時代の地図だから、建物はでたらめ、道もでたらめに近い。それでも、優れたオリエンティアはたった1レッグで順応して、限られた地形という情報から目的地に到達する。そこそこ活躍する路ゲイナーから見ても、それはファンタジスタのプレーである。それが一方でその選手を応援したいという気持ちを生み、他方でオリエンテーリングのトップ選手の自覚を高めていく。これもまた、10年間の活動で経験したことである。具体的な話、柳下選手はロゲイニングでの成功がなければ、WOCへの出場はもう少し遅れたことだろう。

 オリエンテーリングの持つハードルを自覚しながら、一方で間口を広げて人を集める周辺スポーツと、ナヴィゲーションという共通の核でつながり、それによって他のナヴィゲーションスポーツも深まりが生まれ、オリエンテーリングにも広がりが生じる。それが今私が描くオリエンテーリング普及・発展の戦略である。