オリエンティア Advent Calendar

オリエンテーリングを語ろう。

JOAの理事になってみました。

こんにちは。はじめまして、宮川と申します。

 

タイトルは、「JOAの理事になってみました。」です。

これまで知らなかったJOA(日本オリエンテーリング協会)の世界に飛び込んだ話を、少しだけできたらな、と思い寄稿します。

 

1.はじめに

 

まずは、自己紹介です。

私はいわゆるオリエンティア2世で、子供の時から大会会場に連れられていました。

選手としてはJWOCやWOCにチャレンジし、インカレに熱を注ぎ、卒業して3年間は東大OLKでオフィシャルをしていた社会人4年目です。

今はES関東CとNPOトータスに所属しています。

運営はインターハイ(2013)、全日本スプリント(2015)、伊豆大島大会(2018)、AsJYOC(2019)はメインで関わっておりました。

次の春インカレでは競技責任者を務めます。

 

オリエンテーリングが好きで、楽しくて、ここまでやってきました。

気付けば、代表選手、大学生オリエンティア、コーチ、運営者といろいろな立場を経験しました。

 

さて、そんな自分が、今年の春に村越さん(全日本大会で歴代最多優勝回数を誇るレジェンド)から、JOAの理事をやってみないか?とお誘いを受けました。

聞けば、JOAの女性理事を探しているとのことでした。

 

その時は、なぜ女性理事が必要なのかも、わかっていませんでした。

 

 

2.自分はオリエンテーリング界になにができるか?

 

理事を引き受けるかは相当悩みました。

私はこれまで日本学連や関東学連の幹事でもなかったですし、学問的に何か優れたものを持っているわけでもありません。

仕事も新卒以来、営業(人が作ったものや人の仕事を売る仕事)をしており、自分はなにかを生み出せる人材ではないと思っていたから。

 

でも唯一、できるかもしれないと思ったことがあります。

それは、「つなぐこと」でした。

 

何度か、オリエンテーリングをやめようかと思ったことがありましたが、結局好きで続けてきました。

森の中での"あの感覚"がいつも忘れられず、週末自ら山へ足を運ぶようになって10年目になります。

 

この10年、オリエンテーリング界でたくさんの人に出会いました。

 

狭い世界です。

たしかにオリエンテーリング以外のコミュニティでの出会いは全く違う新しい発見を与えてくれて、私にとってとても大切です。

でもオリエンテーリングを通して出会った人たちは、いや・・これうまく言葉にできないんですが、何か特別で、何というか・・・好き???なんですよね。

たとえ、今はオリエンテーリングをやっていなくても、それでも、です。

 

過去4年間のAdvent Calenderでもたくさんの言葉でオリエンテーリングが綴られています。

Advent Calenderに綴られているような、それだけではなく過去も今も多くの人から注がれた、たくさんのオリエンテーリングへの愛を、つなげられたらいいな、と思いました。

 

本当は、もっと明確なビジョンを持って飛び込みたかったです。「この組織の課題は何で、こんなプランを持ってすれば解決できるのだじょ!」、とか。

でも自分の中で腑に落ちたのは、その1点(つなぐこと)でした。

様々なスゴイことが出来る人たちがまわりにたくさんいるので、そんな人たちと日本のオリエンテーリングを作っていけたらと思って、結果的には飛び込むことにしました。

 

 

3.そもそもJOAってなに?

 

JOAの理事に誘われるまで、あまりJOAのことを知らなかったです。

 

①JOAへの疑問:JOAってどんな組織なの?

②理事への疑問:理事って何人いるの?何をする人なの?

③その他の疑問:全日本大会って今後どうなるの??

 

JOAってなんだか雲の上の存在でした。

よくTwitterなどで「JOAはうんぬんかんぬん」という批判を目にしますが、普段呼んでいる「JOA」ってなんぞや?というのを私は分かっていませんでした。

 

箇条書きではありますが、これまでに知った「JOAとはなんぞや」、という部分を書いてみます。

参考:http://www.orienteering.or.jp/joa/

 

 

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日本オリエンテーリング協会

 ・JOA(日本オリエンテーリング協会)は公益社団法人です。

 日本のオリエンテーリングを代表する中央組織で、毎年厳しい審査を通り内閣府から公に益する事業をしていると認められています。

 

・日本でオリエンテーリングを事業として掲げられる公益社団法人JOA以外に認められていないので、JOAが日本一と決めたチャンピオンは、「日本」の中で「オリエンテーリング」の競技で(当該年度にその種目で)頂点であると認められることになります。

 

IOF(国際オリエンテーリング連盟)日本スポーツ協会JOC(日本オリンピック協会)の承認団体として加盟をしています。縦や横のつながりもしっかりしております。

これらの組織に加盟しているから、世界選手権に選手が派遣できたり、国際大会を日本で開催することになったり、東京オリンピックの候補種目として手を挙げられたりします。

 

要は、日本のオリエンテーリングを代表する組織だと社会から認めてもらっている、のがJOAです。

 

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JAPAN SPORT OLYMPIC SQUARE

・2019年6月に岸記念体育館からJAPAN SPORT OLYMPIC SQUAREに事務局がお引越しになりました。他の競技団体と共有ですが、オリエンテーリング協会のスペースを持っています。

 

・ 事務局には事務局員がおります。時給を支払ってます。JOAの事務作業を担う役割で、会計業務や広報業務など、様々な事務仕事を担っていただいています。

誰かが「オリエンテーリング協会に問い合わせをしたい」と思った時に、電話を取ってくれる人がいるというのも対外的に見れば大切な役割です。

 

事務局が”主務”なら、理事が”主将”です。

 理事は、組織全体の事業方針を決めていきます。そして、その実行部隊が「委員会」です。ちなみに、事務局員以外は無報酬です。

 

・まずは委員会から。2019年12月時点で18の委員会があります。

 専門分野に分かれて、3~8名程度で活動しています。

 ★委員会の代表例

  競技委員会:日本の競技規則を策定する、イベントアドバイザーを派遣するなど

  強化委員会:日本代表選手を派遣する、選手強化をするなど

  地図委員会:日本の地図規則を策定するなど

 他にも、スキーO/トレイルO/MTB-Oの各委員会や、女性委員会、地域活性化委員会、国際委員会などがあります。

 

・そして、理事です。理事・・というか「役員」の中でも役割が決まっています。

 

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会長・山西哲郎

 JOAのトップ(会長)は山西先生です。よく全日本大会でメダルを授与してくださるおじさまです。ランニングの伝道師です。

 参考(写真も拝借しました):https://runnet.jp/award/detail_n30.html

 

 ・そして、副会長が2名、業務執行理事が5名、理事が11名という構成です。

 組織構成:http://www.orienteering.or.jp/joa/organization.php

 日本学連がJOAに加盟してからは、日本学連の幹事長がJOAの理事になっています(藤本くん)。理事の中で若手と呼ばれるのは、藤本くんと、東大OBで2年前に日学幹事長だった瀬川くん、そして私です。

 

・理事は、地方ブロックの代表+学識経験者+日本学連からの選出で構成されています。私は首都圏Bブロックの代表で、JOAの理事になるタイミングに神奈川県協会の理事にもなりました。

 

というわけで、JOAの内部組織は「理事(役員)」、「委員会」、「事務局」に分かれており、それぞれ、理事は方針を決める、委員会は各専門分野で事業を実行をする、事務局は業務を円滑に回す、という役割のもと動いております。

 

これまで、運営者や競技者として、オリエンテーリングを愛好しているだけでは知ることができなかったのは「社会・スポーツの中でのオリエンテーリングの地位」を守るために、JOAの方々は多くの力を注いでいたということでした。

誰かひとりの力ではきっとなしえなかったことだと思いますし、心から敬意の念を表したいと思っています。

 

でも、残念ながら、その対外的な地位をまだまだ活かしきれていないのが現状で、だからこそ、年間5,000円の競技者登録をしている私たちにとって、メリットが感じられない・競技者登録をする意味が分からない、という事態になってしまっているのだと思います。

 

4.みんなオリエンテーリングが好きなのに

 

先から書いているように、私はJOAが雲の上の存在であると思っていました。

おかみの存在で、そこで代表選手の選考方針が決まったり、全日本の日程・開催場所が決まったり、様々な規則が決まったりしていると思っていました。

 

でも実際入ってみて、他の理事や委員長の方々とお話すると、こんな声をよく耳にします。

 

 ①若手の意見をどんどん出してほしい

 ②後身がいないから自分がやっている

 

あ、おじさま方は若手のことをもっと知りたいんだ、というのは発見でした。

先日、副会長の愛場さんから頂いたメールの中には、こう綴っていただいています。

 

これからのオリエンテーリング界を背負って立つのは皆さんの世代です。
より広く、多くの人が、オリエンテーリングを楽しくできる環境を作ってゆきたいと思います。
そのために、是非力を貸してください。今後とも、ご協力のほどをよろしくお願い申し上げます。

 

私がこれまで感じていた、JOAと競技者との溝

「競技者のことを分かろうとしないJOA」だけではなく、「JOAのことを分かろうとしない競技者」もいたのではないかと、そう感じています。

 

感じているのは、競技者との溝だけでなく、事業者との溝もしかりです。

オリエンテーリングで生計を立てて行こうとしている方々との棲み分けを明確にして、しっかりその方々が「食べていける」ようにする環境づくりも必要です。

 

みんな、オリエンテーリングに対して時間・お金・人生・愛を注いでいるのだから、それらをつなげて、未来のオリエンテーリング界の仕組みを組み立てていくのが今の目標です。

と、だいそれた&照れくさいことを書きましたが、そんな大きな話、私や理事の力だけでは到底できるものではありません。過去の取り組みを振り返り、たくさんの人と協力しながら、ひとつひとつ、役割分担をして進めていけたらと、思っています。

 

5.これから進む先は

 

かつて私の母が所属していた、筑波大学オリエンテーリング部の活動方針ページ(http://tsa.tsukuba.ac.jp/orienteering/activity/)にこんな記載があります。

スポーツには勝利至上主義としての「チャンピオンスポーツ」の側面と、みんなのスポーツとしての「一般体育」の側面があり、どちらも欠かせない視点として重視していますが、さらに「支える側のスポーツ」として大会や対抗戦の運営、地図調査にも取り組んでいます。

 オリエンテーリングには、3つの価値(選ばれる理由)があると思っていて、それを要約してくれているのがこの文章です。

 

昨日、濱宇津が綴った、紺野晃氏が広めた日本のオリエンテーリングの世界。

 

チャンピオンスポーツも、支えるスポーツも、全てを包括した「みんなのスポーツ」というオリエンテーリングの文化

そこに至るために、JOA、事業者、都道府県協会、地域クラブ、大学クラブ、中学・高校クラブと共に、みんながオリエンテーリングを楽しみ競い合う場が続くことを願って、これからも進んでいこうと思っています。

 

 さて、理想ばかり語っていても仕方ないので、JOAでやろうとしていることを書いておきます。

まずは、新たにアスリート委員会の設立を進めています。

JOAと競技者が少しでも近くなるよう、寺垣内さん、堀田さんの力をお借りして、委員会の方針を固めようとしているところです。

近々、一部の選手の方々にも声をかけさせていただく予定です。

 

公認大会・全日本大会の再編も考えてはいますが、これまで多くの人が悩み考えチャレンジしていっても、お金/理想/インカレとの差別化、他様々な要因から、形が出来ているとはいえない状況です。

 

冒頭に書いた、女性理事が必要な理由は、JOAはスポーツ協会の中央組織に日本スポーツ協会から課せられているガバナンスコードに基づいて組織形成を行っているのですが、その中に女性理事40%以上という目標があるそうなのですね。(厳しい)

なかなか厳しい目標ではありますが、多様性を求めるという点では参考になる考え方かと思っています。理事は難しくとも、委員会レベルから、新しい風を吹かせていきたいです。 

 

若輩者ですが、ぜひたくさんの人たちと楽しみながら、創っていけたらと思っています。

 

It's all about Orienteering.

 

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WOC2013

 

オリエンテ―リングの誕生秘話

オリエンテーリングの誕生秘話 

 こんにちは。濱宇津佑亮です。

 12歳でオリエンテーリングに出会い今年で11年も経ちました。早いものです。

 さて、今日12月15日は大河ドラマ『いだてん』の最終回ですね。東京オリンピックに賭けた人々の物語が最高潮を迎えます。この1964年の東京オリンピックに関わり、そしてオリンピック後もスポーツの理想を追った先人たちが、実はオリエンテーリングの誕生と深く関係していたということを本日はお話したいと思います。

 来年2020年オリンピック東京大会を目前に控えた今だからこそ、振り返っていただきたいと思っています。

 

 1964年東京オリンピック成功の立役者の布石

●「あすに向かっての命題」

 

東京大会*はほんのステップストーンに過ぎなかった.わたしたちは大会が終わった途端に,目の前いっぱいに2本の柱,すなわち競技力の今後の強化向上と国民スポーツの振興がとてつもなく大きな姿で迫っていることを発見したのです.

*1964年オリンピック東京大会

 

 オリエンテーリングの誕生を語るには、まずこの一文から始めないとならない。1965年1月、東京オリンピック選手強化対策本部の機関紙『Olympia』の最終号に大島鎌吉選手強化対策本部長が寄せた「あすに向かっての命題」の一文です.

 1964年のオリンピック東京大会は、日本代表が金メダル16個の過去最高の成績を残して日本中を熱狂させました。そんな快挙を成し遂げた日本代表選手団の中心にいたのが、選手強化対策本部の本部長・団長として代表選手の強化を担った、大島鎌吉でした。今でも大島は「東京オリンピックを作った男」と呼ばれています。

 そして、大島鎌吉と大島鎌吉のスポーツに賭けた想いを受け継いだ弟子たちによって、日本にオリンテ―リングが芽吹いていったのでした。まずは、大島鎌吉がどのような人物だったのかに迫っていきたいと思います。

 

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来日したスウェーデンオリンティアに賞状を渡す大島鎌吉

 

●大島鎌吉と「みんなのスポーツ」

 大島は1908年金沢市生まれ。金沢商業学校で三段跳びに出会い、そこから選手として活躍していきます。1932年の第10回オリンピックロサンゼルス大会では銅メダルを獲得し、1934年には15m82㎝の世界新記録を樹立しました。トップアスリートです。競技を引退後は毎日新聞の記者をしながらも、(第2次大戦中にはドイツ戦線を取材し、軍の高官になりすましてヒトラーと体育政策について議論したという武勇伝も、、、)日本のスポーツ界に関わり続けていました。

 

 そんな大島は、戦争終結後の1947年の時点で日本のスポーツ界に対して次のように述べています。 

 

従来の日本スポーツが学生選手の独占的花園でしかなかった.オリンピック選手のほとんど全部が学生で占められた実際は,日本資本主義を母体とする社会環境の生んだ奇形だが,勝利追求に急なあまりこれをきよう正せずいよいよ変質型に追い込んだ事大主義的失敗はこの際断じて繰り返すべきではない.われわれがスポーツ界に声を大にして叫ぶとは「スポーツは国民大衆と共にあれ」「スポーツは大衆に基盤をもつて育成させよ」ということだ.壊れかけたピラミッドの先端だけをながめて回顧し,弱弱しく「復興」をさけぶ愚人の夢を追ってはならない.(大島 1947: 2)

 

 

 大島はスポーツの参加者が学生のみになっている現状を批判し,スポーツの大衆化の重要性を訴えていました。そのころの大島は毎日新聞社の記者の立場から、高度な競技者の育成を中心に据える日本体育協会に対して警鐘を鳴らしていました。そのため、競技力の向上を唱え続けて日本体育協会をリードした『いだてん』主人公の田畑とは長年の思想的ライバルであったと言われています。

 では大島のスポーツへの考えはどのようなものだったのでしょうか。その背景には、オリンピック思想があります(※大島はオリンピックの父・クーベルタン著『オリンピックの回想』の訳者でもあります。)

  それらは、オリンピックの精神「青少年の育成」、「平和の祭典」、「勝利することではなく、参加することに意義がある」です。大島は青少年の育成のためにスポーツ少年団の設立、東京オリンピックの招致を行い、平和の祭典のオリンピックの政治的ボイコットに対しては反論の先鋒を担いました。また平和に関しては、戦争の経験も合わさり、スポーツという身体文化を戦争=死に対抗する生の実践運動として捉えていました。

 

 そんな大島にとって、オリンピック東京大会を終えた後に至上命題として残ったのが冒頭「明日への命題」における、競技力の今後の強化向上と国民スポーツの振興の両立だったのです。重要なのは、競技力向上とスポーツ文化の普及を結び付けて両立するという点です。スポーツが人々の生きる糧になると信じていたからこそ、スポーツが日常に溶け込み文化として根づくことを理想としていたのでした。大島の理想は「みんなのスポーツ」=sports for all運動として実践されていくのでした。

 

●大島鎌吉の布石

 さて、競技力向上にしか興味のない日本体育協会がスポーツ界の中心を占める中、大島はどのように彼の理想を追い求めたのでしょう。そこには大島が1964年の東京オリンピック前に仕掛けた大きな布石があります。

 大島は東京オリンピック開催間近の1964年1月26日に国会に呼ばれます。その当時、国民の関心はオリンピックで日本選手が何個メダルをとれるのか。それを選手強化本部長の立場として、説明に国会の場に出席しました。大島はそこで、過去最高の金メダル15個以上獲得を明確に宣言します。

 

 

御承知のとおりに,東京オリンピックにおけるところの選手強化対策本部の成績の目標でございますが,それは昨年と同様でございまして,大体十五以上の金メダルを取ろう,1位を取ろうということになっているわけでございます.

 (『第46回国会参議院オリンピック準備促進特別委員会議事録第2号』  1964)

 

 

 これにより日本代表は大きな期待を背負うことになります。大きなプレッシャーにさらされた中、16個の金メダルをとった日本選手団は天晴れという他ありません。

 さて、重大な発表を行った大島ですが、同時に理想のための大きな布石を打っていました。

 大島は、上の金メダル宣言から間髪を入れずにこう続けています。

 

  

私たちがもう1つ関心を時っております問題は,これは善後処理と申しますか,今日ここまでやってまいりまして,いろいろと手を広げてまいったのでありますが,しかしオリンピックが終わると,それが何もなくなるというようなことでは,将来の日本のスポーツのために,あるいは体育のためによくないのではなかろうか.したがって,これだけ手を広げたものを何らかうまく組織をいたしまして,オリンピックが終わりではなくて,オリンピックを新しいスタートとして,これらを日本の体育,スポーツの将来のために備えたいというような考えを持っているのでございます.(中略)その節は従来に変らず御協力をお願いしたいと,かように存じております.

 (『第46回国会参議院オリンピック準備促進特別委員会議事録第2号』  1964)

 

 

 

 大島はオリンピックの成果を約束すると同時に、オリンピックの選手強化本部を基礎した新たな組織の発足と国の支援の約束を求めたのでした。そして大島が宣言通りにオリンピックで成果を残し、当時のオリンピック担当大臣の河野一郎の協力もあって、「体力つくり国民会議」とその事業実施団体として「国民体力つくり事業協議会」が設立されました。オリンピックの選手強化本部にいた人々が多くこの組織に入り、行政の支援を受けながら、民間とも連携して「みんなのスポーツ」運動を進めていきます。

 この組織がオリエンテーリングを日本に普及させていくことになるのです。

 

「みんなのスポーツ」とオリエンテーリング

 オリエンテーリングの父 アーネスト・シランデル

 さて、一旦オリエンテーリングの本場北欧での発祥について簡単に振り返ります。オリエンテーリングは北欧が発祥のスポーツです。19世紀、軍隊の斥候訓練として行われていたものが、スポーツ化されていきます。本格的に普及するのは1918年にスウェーデンストックホルムでアーネスト・シランデルが開いた大会以降と言われています。シランデルがルールや規則を整備していきながら愛好者が増えていきました。その功績からシランデルはオリエンテーリングの父と呼ばれています。

 当時ヨーロッパでもスポーツは特定のエリートに占有されていました。そこでシランデルは"スポーツをすべての人の手に!""自然を再びわれわれの手に!""いますぐそのままの姿で始めよう!"を合いことばにオリエンテーリングを一般市民に広げていきました。それが、ヨーロッパにおける地域クラブを基礎としたオリエンテーリングの発展につながっていきます。

 シランデルは日本で「みんなのスポーツ」運動が始まる約50年前に、「みんなのスポーツ」としてオリエンテーリングを生み出し、ヨーロッパに根付かせたのでした。

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●大島鎌吉の弟子・紺野晃とオリエンテーリングの出会い

 さて、東京オリンピック後の日本に戻り、日本でのオリエンテーリングの芽吹きをみていきます。ここからの主人公は、大島鎌吉から代わり、大島の弟子であり、日本のオリエンテーリングの父・紺野晃になります。

 紺野晃さんは1934年新潟生まれ御年85歳です。新潟大学教育学部を卒業後『山と渓谷』の編集をした後、東京オリンピックで『Olympia』の編集を行います。(『Olympia』は東京オリンピック選手強化本部の機関紙でしたね)そこで、紺野さんは大島と出会い、大島の弟子として大島のスポーツの思想を学びます。

 そして、この『Olympia』の記事集めで外国雑誌を収集していた際、紺野さんはオリエンテーリングと出会います。そのときの気持ちを次のように語っています。

 

 自然の中で,子供も大人もエリートも昨日ルールを覚えたばかりの者も,自分の能力に見合うカテゴリーで楽しむことが出来て年齢と言うカテゴリーの中で楽しむことが出来るスポーツは当時の日本に他にない

   

 スウェーデンで「みんなのスポーツ」を目指したオリエンテーリングと、大島思想を引きついだ紺野晃が出会った瞬間でした。

 そして、東京オリンピックの後に発足した「国民体力つくり事業協議会」で紺野さんはオリエンテーリングの普及に邁進していくことになります。

 

オリエンテーリングの芽吹き

 1966年6月26日、東京都高尾で日本初のオリエンテーリングが開催されました。紺野さんは読売新聞社と組み、読売新聞徒歩ラリーという名前でオリエンテーリングを実施します。 

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日本ではじめてのオリエンテーリングコース

 

 読売新聞の広報欄で募集を行い、第1回は106人の参加、その後徒歩ラリーとしては1969年までに15回開催され500人規模にまで拡大していきました。

 徒歩ラリーの順調な成功を見た紺野さんは次なる一手を打ちます。1969年6月23日単身渡欧し、なんとIOFに加入してきてしまいます。まだ日本にオリエンテーリング組織はない状態、つまり加入できる団体がない状態で、日本の加入を認めてもらうというなかなかの荒業をしています。 

 荒業ではあるのですが、このIOFへの加入によって、一気にオリエンテーリングの社会での認知は高まっていきます。新聞、テレビ局、雑誌でオリエンテーリングが大々的に取り上げたのです。そして、この盛り上がりを受けて国もオリエンテーリングを全面的にバックアップしていきます。今では考えられないですが、総理府の名前で 都内の国鉄(JR)と地下鉄車内に5千枚のポスターを掲示しました。また、国のオリエンテーリング振興予算として1971年には7570万、1973年には1億304万が計上されます。

 IOF加盟によって、国と民間の巻き込みに成功したのでした。

 

 もう一つのIOF加盟による大きな変化として、個人で行うオリエンテーリングが上陸したことでした。それまでは徒歩ラリーとして、グループで歩きのみで行うオリエンテーリングを行っていましたが、IOF加入によって役員が来日しIOFの競技規則が日本に知られることになります。

 個人形式&走ってよいオリエンテーリングの最初の大会は、当時SILVAの社長の息子で東大に留学中だったトッド・チェルストロムが監修し行われました。

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日本初の国際方式のオリエンテーリング大会。田園都市線市ヶ尾で。それまでは、スタートが△でなかったり、位置説明はついてなかった。


 日本では、徒歩オリエンテーリングオリエンテーリング(個人方式)という二つの形式でオリエンテーリングが広まっていくことになります。

 

●普及の戦略

 1億円近い予算を獲得した紺野さんはどのようにオリエンテーリングを普及していったのでしょう。紺野さんが整備した枠組みが今のオリエンテーリング界を形づくっています。その取り組みについて重要なものについて、見ていきたいと思います。

 まず1つ目は、競技規則と地図規則の整備です。これはIOFからの情報や、海外に派遣して国際基準に合わせつつ整備していきます。
 2つ目は、組織の整備です。まずJOAの前身である日本オリエンテ―リング委員会を組織し、そののち地方組織を整備していきました。地方組織は主に地方自治体か高校に設置されました。1976年には47都道府県すべてにオリエンテーリング委員会が発足します。この仕組みが今の都道府県協会制に引き継がれます。

 3つ目は、指導者育成です。組織を作っても、まだ日本にはオリエンテーリングについての知識がまったくありません。ルールや地図の読み方、大会運営方法それらの情報に詳しい人は紺野さん含め国内に数人にしかいませんでした。その知識を広めるために全国各地で指導者講習会を行いました。

 4つ目は、全国でのオリエンテーリング大会の促進です。鉄道会社と組みながら沿線にパーマネントコースを設定し、開設記念大会の実施。1975年には全国で300万枚の地図が使用されたそうで、当時は家族やグループの参加だったことを考えると述べ1000万人以上の参加がありました。

 また、新聞社とも協働し読売新聞大会などの冠大会を実施していきます。1974年の読売大会では7824人の参加がありました。(赤根に7000人が押し掛けた。市民マラソンの元祖である青梅マラソンの4397人を超える規模で市民スポーツとしての最も早く盛り上がったともいえるかもしれません。)

 紺野さんの取り組みにより、オリエンテーリングは一気にブームを迎え、オリエンテーリングを知っている人→やったことある人→愛好者が生まれるようになっていったのです。

 そしてこれらの取り組みは、「みんなのスポーツ」を標語に実践されました。「みんなのスポーツ」という大義があったからこそ、ここまで国や民間を巻き込んだ普及活動ができたのです。

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読売新聞1969年5月1日朝刊。読売新聞は3面全部オリエンテーリングを特集してくれたこともあった。

 

 

 

「みんなのスポーツ」とO-Ringen

 ここまでの流れをまとめると、スポーツの大衆化と競技力の向上の両立を目指した「みんなのスポーツ」運動は、大島の東京オリンピックの成功があってこそ始まり、その先鋒としてオリエンテ―リングが日本で普及されていったのでした。そして、紺野晃さんの普及活動によってオリエンテーリングに出会った、次の世代がオリンテ―リングの発展を担っていきました。

 では、「みんなのスポーツ」はオリエンテーリング界に今も残っているのでしょうか。それを僕はO-Ringenに見出しています。

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世界チャンピオンから老人と子どもまで一同に会す



 O-Ringenは毎年7月下旬にスウェーデンで行われる世界最大規模のオリエンテーリング大会です。2~3万人の参加者が世界各地から集まり、6日間にわたってレースを行います。参加者はクラブ単位で参加し、クラブの仲間たちとキャンプやコテージ等を借りて大会を楽しみます。

 3年前自分もオーリンゲンに参加しましたが、その規模に圧倒されると共に、何よりもレベルや年代に関わらずオリエンテーリングを楽しんでいました。そのオリエンテーリングの楽しみ方の多様さにとても感動しました。忘れられない大会です。

 

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おしゃぶりをしたお孫さんと嬉しそうにスタートに来たおじいさん。人生を通じてオリエンテーリングが楽しまれている。



 

 そして、実はオリエンテーリング普及初期においてもO-Ringenは「みんなのスポーツ」の理想が現実の姿として現れたものとしてオリエンテ―リングの普及関係者を魅了していました。1973年に参加した日本オリエンテ―リング委員会の事務局長の猪川清の言葉を引用させてもらいたいと思います。

 

 

10才から70才以上の人びとまで,しかも国際級のエリート選手も,昨日はじめたばかりの初心者も同じゲレンデで45000の大観衆の応援のなかを懸命にゴールインする姿,最初のゴールインから最後のゴールインまで12000人の人びと(おとなも子どもも)がつぎからつぎへ約5時間にわたって,流れる人間の川のようにゴールインする姿,これこそファミリー・スポーツであり,「みんなのスポーツ」である,”社会体育”という観念上の言葉がここに現実の姿となって展開されていることを,参加した日本人の人びとはこの目で見,この身体で体験したことが何よりの成果であった.

 山形県から参加した62才の後藤さんはこの状況を見て感動のあまり,まぶたが熱くなって泣けてきたと私に語った.(中略)

 「参加することにこそ意義がある」といったオリンピックの父・クーベルタンの言葉どおりの,「すべての人びとのためのスポーツ大会」がここに存在するのである.(中略)

 21世紀のスポーツといわれるオリエンテーリングは,すぐれた大衆性をもっている点で,国民の体力つくり運動推進の大きい柱となる資格をいつまでも失わないであろう.「みんなのスポーツ」―社会体育の夜明けの幕を引くものは,オリエンテーリングであるということを信じて疑わない.(猪川 1975: 53-55)

 

 熱くO-Ringenを語られています。O-Ringen、そしてオリエンテーリングに理想を見た先人たちが最初の最初のオリンテ―リングを支え育ててくださったのです。そして、その理想は時を超えて、今もO-Ringenにみることができると思います。

 

●終わりに ―「人生に野遊びを」―

 オリエンテーリングの誕生秘話を書かせていただきましたが、歴史を振り返ってみて、これからのオリエンテーリング界を考えてみると、自分は「オリエンテーリングは文化である」ということを心にとめることが一番大切かなと思っています。大島の「みんなのスポーツ」とは今の時代に読み替えれば、スポーツを「文化」として捉えて楽しむことだと思います。競技で勝つことだけが、大会に出ることだけで全てではなのではないです。

 昨日の高野さんはピーマンの肉詰めの話をされていたので、料理で例えてみると、プロのシェフもいれば、家で自分のため友人のため家族のために作っている人もいます。そして、それぞれの料理に個性があります。また、料理がうまければ偉いというわけでもないです。そして自分のためだけに作る料理より、人のために作ってみんなで食卓を囲むとよりおいしくなったりします。それを人は食文化と言ったりします。

 そんな風にオリエンテーリングでも仲間を作って、一緒にトレーニングしたり、大会に参加したり、ある時はオリエンテーリングを教えたり、ご飯を一緒に囲んでオリエンテーリング談義に花を咲かせたり。そんな風にオリエンテーリングを楽しむというのは何歳になっても人生を豊かにしてくれると思っています。

 

「人生に野遊びを」by Snow peak

 

これからも一緒にオリエンテーリングを楽しんでいきましょう。

 

 

※今回の内容は2018年度東京大学文学部社会学研究室卒業論文「日本におけるオリエンテーリングの成立―体力つくりとスポーツの狭間で─」に基づいて書いています。卒論は社会学研究室の優秀賞にも選んでいただけました。嬉しい。

 

※内容としては、卒論の3割くらいです。他にも、「競技者」の誕生(「優勝」を目指す柳下惇夫物語)や、O-Mapの発展(元祖巨匠たちの物語)、全英チャンピオン杉山隆司という黒船、徒歩OLとオリエンテーリング(国際方式)の闘争と紺野晃の苦悩など、オリエンテーリングの歴史は面白いので、興味ある方は卒論フルバージョンも読んでいただければと思います。興味ある方は連絡ください~。

 

※改めて卒論でお世話になった祐成保志先生,国沢五月様、船橋昭一様,高村卓様,池ヶ谷悦朗様.柳下惇夫様,豊島利男様,山川克則様,青木高様,長谷川純三様,小笠原揚太郎様,寄金義紀様,紺野晃様,森川正己様,見上和美様,加藤隆幸様,山岸夏希様.日本オリエンテーリング協会事務局様にお礼申し上げます。ありがとうございました。

 

 

面白いテレインを見つけて開催する高野的方法

14日目アドベントカレンダーに寄稿させていただきます高野兼也と申します。公開日を勘違いしていたので、ちょっと遅れて公開いたします。拙い文章ですが、お読みいただけると幸いです。

 

 僕は大学からオリエンテーリングを始めました。新潟大学オリエンテーリング部に所属し、一応何度かインカレで入賞したことあります。あとは、アジアジュニアユース選手権やアジア選手権、最近では、ワールドカップファイナルに行ってきました。楽しかったです。応援ありがとうございました。

 

 現在は某小売店で働きながら、新潟を拠点にオリエンテーリング活動を行っています。パークOツアーやスタジアムスプリントが記憶に新しいと思います。あれの主催者です。

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 某小売店新潟店です

 

というわけで本題です。

僕はどうやってそんな変なところを見つけて、開催することできるのかということについて、変なところの見つけ方からお話しします。

 

ピーマンの肉詰めに例えて説明します。

 

まずピーマンの芯をとります。つまり、頭の中から一般常識や先入観を無くします。個人差はありますが、頭の中がかなりスカスカになります。スカスカになればなるほど、良い頭でした。

そこに、肉、つまりオリエンテーリングを詰めます。そうすると、オリエンテーリングのことしか頭にない人の完成です。ここまでで下地ができました。しかしこれだけではただのオリエンテーリングバカなので、まだ不十分です。例えると、ピーマンに生肉詰めただけです。

 

あとは味付けと炒める作業ですが、これは「ここでオリエンテーリングできたら面白そう」という単純な思考を常にするだけで大丈夫です。普段通り生活するだけで、アイデアが降ってきます。

 

 

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 ピーマンの肉詰め。肉がオリエンテーリング

 

ね、簡単ですよね。僕は常識と一緒にいろいろものがとれました。かなりスカスカになりました。そして頭の中はオリエンテーリングです。

 

参考までに僕がみつけた面白いところ例がこちらになります。

砂浜は砂漠テレインに見えました。*1

 

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砂浜。会場まで車がたどり着かない。衝撃の大会でした。

 

 

スタジアムは陸上やサッカーでも使っているので、オリエンテーリングでもできるだろうと思いました。*2

 

 

県庁は別用で行ったのですが、テレインでした。*3

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新潟県庁。県庁オリエンテーリング

 

サントピアワールドもテレインでした。((サントピアワールドは新潟にある遊園地。これから開催予定) 

特に後半の県庁とサントピアワールドで顕著ですが、もはや何を見てもテレインにしか見えなくなっています。

 

最近は、羽田空港の滑走路でオリエンテーリングしたいとか、スモールライトで小さくなってパソコンやテレビなどの電子機器のなかでオリエンテーリングしてみたいとか考えています。

 

以上のような手順を踏むと、常識にとらわれずに変なところを確実に見つけることができます。みなさんもやってみてはいかがですか?

ただし、この手順を実行するのは自己責任でお願いします。学校やめるとか仕事クビになったとかの責任は一切負いません。

 

 

ここからはまじめに書きます。

では、どのようにして開催にこぎつけたのか。

今までに渉外活動を行ってきた上で共通していることは、まずは聞いてみるという「行動力」です。

 

これに尽きると思います。どうせ渉外通らないだろうとか、渉外が難しそうとか初めから決めつけるのではく、まずは聞いてみることが大事です。聞くだけなら無料です。駄目ならそれで仕方がないのです。

 

スタジアムも電話で聞いてみたら、軽くOKもらえたので、その週にご挨拶に伺いました。砂浜はどこに聞けばよいのかわからなかったので、とりあえず市役所に聞いてみました。

県庁もとりあえずスポーツ課さんに聞いてみて、なんとか動き出しました。(実は半年前から渉外しています。)

 

あとは、最初に聞いてみる相手も重要です。

 

県庁の場合は、スポーツ課さんを通さずに管財課という県庁の敷地や建物を管理しているところに聞くのではなく、

はじめにスポーツ課さんにお話をして、味方につけて、管財課さんにお話しした方が許可をいただきやすいと思いました。

 

角田浜集落や横根集落、大白川集落といった集落スプリントでは、最終的に区長さんや自治会長さんにお伺いする必要があるため、その方に近い方からオリエンテーリング開催のための理由を見つけるために集落の情報を集め、同意を得るようにします。

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横根集落にあるハーブ香園。魚沼産コシヒカリは本当においしい。

 

まずその集落に地域おこし協力隊がいるかどうか調べます。いる場合は、市役所経由などでまずは協力隊の方に聞いてみます。

 

いない場合は、そもそも外の人間が集落に関わることに対して、好意的かどうかを知るために、その地域が地域の活性化を目的としたイベント(特にスポーツイベント)など集落外の人間が関わってきた過去があるか調べます。

 

外の人間が関わってこなかった集落で渉外したことないですが、正直言って、特に強いつながり(例えば、親や親せきが区長さんをやっているなど)がないと厳しい気がします。

 

イベントなどあった場合は、とりあえずそのイベントの事務局に連絡してみます。もし他に窓口がある場合はそちらを紹介してもらいましょう。

そこで、集落の情報をキャッチし、しっかり理由をつけたうえで、区長さんにご連絡しアポをとって、お話しするとよいでしょう。

 

もちろん様々な集落があるので、全ての集落でこのやり方が当てはまるわけではないと思うので、一概には言えません。臨機応変に対応しましょう。

 

以上までが、僕の場合の開催にこぎつける方法です。

 

 

まとめると、変なところを見つけ、大会を開催するためには、自分をピーマンの肉詰めにすることとまずは聞いてみる行動力が大切です。

 

ここまで読んでいただきありがとうございました。

またいろいろ大会企画してます。情報は僕のツイッターで更新しています。

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今後ともよろしくお願いいたします。

*1:砂浜とは「新潟パークOツアー第4戦」で開催した新潟市西区五十嵐にある砂浜。

*2:スタジアムとは「2019年8月18日にスタジアムスプリントとして開催したデンカビッグスタジアムスタジアムのこと

*3:県庁は新潟県庁のこと。これから開催予定